2012年4月9日月曜日

信仰という名の虐待


信仰という名の虐待

信仰という名の虐待
Spiritual Abuse

パスカル・ズィヴィー(マインド・コントロール研究所所長)がクリスチャン新聞に連載している内容を掲載しています。

「1」2002年1月20日

普通の教会が「カルト」化する現象が増えてきている

  私はこの10年の間に、多くのカルト信者とその家族からの相談を受けてきました。そして1年前に、ある元カルトメンバーの協力により、ホームページを開くことができました。ホームページの一番の目的は、元カルトメンバーの相談、カウンセリング、リハビリテーションを行うためです。

ホームページの内容は、日本語、英語、フランス語と3か国語で作られているため、メールの相談は、日本だけではなく、諸外国からも届きます。届いたメールの中で、クリスチャンとして残念な内容のものがありました。それはクリスチャンからのものでした。彼らの話によると、入信している教会の牧師、長老あるいは他の信者たちから精神的な被害を受けたというのです。
 全国各地の他のカウンセラーたちも、同じような相談を受けているといいます。さらに、日本だけにとどまらず、アメリカやヨーロッパでも同じような被害を受けている人がたくさんいると、専門家たちが報告しています。すでにこの問題について英語とフランス語で数冊の本が出版されました。アメリカの専門家たちは、こうした状態をSpiritual Abuse「『信仰』という名の虐待」と呼んでいます。
 この問題について私が感じることは、すでに各国で問題と報告されているこのような現実に対して、日本ではまだクリスチャン、牧師、長老があまり理解していないということです。
 「虐待」と感じていない時には問題はないでしょう。その場合には、それとわかってから、学ぶことができます。しかし、この「『信仰』という名の虐待」があるとわかっていながら、その現実から逃げている、あるいは傍観しているクリスチャンが多いのではないでしょうか。私は相談者から、「他のクリスチャンに助けを求めても、だれも私の苦しみを受け入れてくれなかった」と聞きました。
 
私は、破壊的カルトのマインド・コントロールの研究によって、一般的な宗教でも、「信仰」の名目で、人々の精神を操作する危険性があることを考えておかなければならないことがわかってきました。日本にはあまり資料や文献がありません。
今回の執筆によって特定の教会・教団あるいは牧師の批判をするのを目的としているのではありません。むしろ、多くの人たちにこの「『信仰』という名の虐待」の問題を理解していただくために、いろいろな観点から考えていきたいと思っています。 現代のキリスト教の中には、こうした問題が確かにあります。もちろん、すべてのキリスト教会でこのようなことが行われているわけではありません。しかし、現実にはその危険性が十分にあり、クリスチャンは注意しなければならないのです。 もしこうした状態が実際に存在すれば、その教会はカルトになる可能性があると考えなければなりません。この状況を回避する重要なポイントは、より多くのクリスチャンがこのことを認識し、問題に対して立ち向かっていく� ��とだと思います。


強力な関係を持ってする方法

「2」2002年1月27日

罪責感を植えつけ支配する心理操作のメカニズム 人間を支配するためにはいろいろなテクニックがあって、それによって操作された人は傷を受けます。「信仰」という名の虐待が、精神的な面を支配するだけでなく、人間の霊的な(魂の深みの)部分にまで及んだ場合には、傷はとても深く、立ち直るのに非常に時間がかかります。
 この問題を研究しているアメリカの牧師ジェフ・バン・ボンデレンの指摘によると、普通の教会では、牧師や長老は信者の精神面を霊的に支え、育てていく役割を担っていますが、牧師や長老が自分たちの欲求を満たすために信者たちの心を利用するようになると、これは「『信仰』という名の虐待」となります。
 そのような牧師や長老たちは、「自分たちの言うことに逆らうならば、それは神様に反逆することと同じだ」と言って、相手に強い罪責感をもたせます。罪責感を植えつけられた人は、牧師に背いて自分の意思を持つことに対して、強い恐怖感を抱くようになります。そのために、社会生活においても自分の意思を表すことをあきらめるようになり、牧師や長老たちから支配されるままになっていきます。
実際に起こった事例を2つあげたいと思います。(特定の教会の例ではなく、各国で報告されている典型的なケースを編集してあります)
  ある教会では礼拝の時に、牧師が一人の信者を名指しで批判しました。「自分の言うことを聞かなかったので、大変な罪を犯したことになる」と言い、他の信者に向かって、「今から彼と話をすることを禁止します。彼の行動はすべて私に報告しなさい」と命じました。名指しをした信者に対しては、「あなたが悔い改めるまで、これを続けます」と言いました。またある教会では、牧師と長老たちが信者の家を一軒一軒訪ねてまわり、「○○さんと交わりを持つのは神様から見て良くないので、交際をやめなさい」と言いました。
 どちらの例も、牧師と長老は、信者に命令する時に聖書のみことばを用い、あたかもそれが神様の命令であるかのように言いました。批判を受けた前者の信徒はその教会にいられず、別な教会へ移りました。そこで出会った牧師を通して、自分が前の教会で操作されていたことに気がつきました。そして長い時間をかけて自分の深い傷が癒されていきました。しかし、後者の信徒はその教会へ行かなくなりましたが、心の傷がとても深かったために、他の教会を訪ねる気持ちにさえなりませんでした。
破壊的カルトから離れると、元メンバーはその集団によっていろいろな呼び方をされます。統一協会では「落ちた者」、オウム真理教では「下向者」、エホバの証人では「背教者」という具合です。破壊的カルトの信者がこのようなことばを聞くと、離脱した人たちに対して、「かわいそう」「神様を悲しませた」、あるいは「神様を裏切った」などと思うようになり、以前のように付き合うことができなくなります。そのことばのみで判断して、その人がどうして離れたのか、本当の理由を考えることもしなくなります。「虐待」を行う教会の中では同様のことが起こるのです。

「3」2002年2月3日

まず愛のシャワーを注ぎ恐怖と罪責感と威嚇で服従へ

 世界の専門家は「『信仰』という名の虐待」について、だいたい似たような見解を持っています。それが虐待であるかどうかを見分けるには、その教会の信じるものや教義を十分に見分けなければなりません。中でも、人間の尊厳や自由、人権をいちじるしく侵害する策略や行動があるかどうかを観察すべきです。つまり、それが有害か、あるいは非常に危険であるかどうかを調べるのです。
 「信仰」の名のもとに虐待を行う教会は、信者たちを支配するために、恐怖、罪責感と威嚇を使います。どんな命令でも信者たちは牧師に従わなければなりません。信者たちの判断ではなく、牧師と、その牧師の聖書の教えの判断が必ず正しいのです。どんな問題に対しても、最後に牧師だけが決断することができます。牧師と教会の聖書の解釈に対する批判は許されません。牧師は聖書のみことばを使いながら、信者たちを家族、友達や一般社会から受ける批判的な影響から遠ざけようとします。
 信者たちは、牧師や教会に対して少しずつ批判する能力がなくなっていきます。最終的に、牧師と教会に全く依存するようになってしまいます。依存する状態が完全にできてしまうと、牧師は信者の考え方、感情、行動をすべて支配することができます。信者たちにとって、牧師と教会の精神的な支えを失うことに対する恐怖が、だんだん大きくなっていきます。自分で判断することが難しくなるのです。


子猫は振る動きません
信者たちの間に牧師と教会に対する批判があったり、あるいは教会から離れたいという思いがあったりする時に、牧師や長老たちは彼らに対していろいろな脅しを行います。たとえば、「あなたは地獄に落ちる」とか、「神様はあなたを永遠に許さない」とか、「あなたはサタンのものになる」などと信じこまされるのです。彼らは、その教会から離れることは神様を捨てることだと信じています。そのような恐怖を植えつけることによって、結果的に、信者たちを完全に服従させることになるわけです。
 確かに牧師は聖書のみことばを使っています。けれども一部分だけです。聖書の文脈、歴史的背景、原語を完全に無視して、勝手に独自の解釈をつくり、信者に教えます。部分的にではありますが、聖書を使うので、信者たちは聖書を見るたびに、これは聖書の教えだと思い込みます。
  多くの被害者の証言によると、そのような牧師に出会った時の印象は、それまでに出会ったこともないようなカリスマ的な存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物だったというものです。彼らはその後、「こんなひどい目に遭うとは夢にも思いませんでした」と説明します。
 これは、破壊的カルトの中でよく使われている「ラブ・ボミング」(愛のシャワー)というテクニックです。とにかく信者にさせるために、その人に好意の雨を降り注ぎます。その人をほめます。よく笑う人であれば「明るいですね」とほめます。笑わない人であれば「まじめなんですね」とほめます。あらゆる点についてその人をほめるのです。

「4」2002年2月10日

人権無視の「告白の儀式」で人を奴隷化する権威主義的構造

 

「信仰」の名のもとで虐待が起こる教会で、牧師は信者を獲得するために良き理解者を装っています。「愛のシャワー」を浴びた人たちは強い義理を感じているので、本心を伝えることが難しくなります。このような環境の中で、信者たちは質問や批判をすることができなくなってしまいます。批判することに対して、強い罪責感を感じているからです。もしも彼らが質問や批判をしたならば、牧師や長老たちは「あなたの批判は牧師、教会や神様に対しての冒涜である」とか、「今まで私たちはあなたを愛してきたのに、なぜこんなわがままを言うのですか」「あなたは霊的におかしくなっている」「あなたは神様を悲しませている」などと責められます。
 『マインド・コントロールの恐怖』という本の中でスティーヴン・ハッサン氏は、告白の儀式についてこう述べています。「『告白』の過程と結びついて、罪と恥の意識をかきたてる源泉になっている。どのぐらい強烈かは別として、イデオロギー的運動というものはかならず、その人の罪と恥という心理的仕組みを掌握して、その人の変革に強烈な影響を与えるのである。これは『告白』の過程の中で行われる。そしてこの過程がまた、それ自体の構造を持っている。人々が自分の罪を告白する集会には、まわりからのきまったパターンの批判と、そして自己批判がつきものである」
一般にクリスチャンは神様とイエス様によって罪を赦していただくために「悔い改めの祈り」を行い、その赦しによって心が解放されますが、「信仰」という名の虐待が行われている教会では、「悔い改めの祈り」は意味が全く違います。それは、「告白の儀式」ということばの方が当てはまると思います。
その内容は、信者の人格を無視して、牧師と教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求され、個人のプライバシーをすべて奪うものです。そうすることで、牧師あるいは教会に対しての批判や疑問を感じることが「罪」であると思うようになります。そして、心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、牧師や教会の考えに無意識のうちに自分も合わせなければならないと感じるようになります。さらに牧師にすべてを告白しているので、牧師はそれを利用し、いろいろな場面で脅してきます。
 
「信仰」という名の虐待が行われる教会の人間関係は、ピラミッド型になっています。横の関係が全く許されていません。縦のつながりのみを重視します。その関係の中で牧師はすべてを支配します。どんなことでも、信者たちは牧師の許可がなければ何も決めることができません。信者たちはお互いに相手の行動を牧師に密告します。「あるメンバーと話をするために、いつも夜になってから、だれにも見られないように隠れて会わなければならない」と一人の信者が証言しています。
こうしたシステムによって牧師は信者の生活のすべてを管理することができます。それによって信者たちは物事を考える時間を奪われ、なかなか現実を見ることができなくなるのです。


カービィボトックスウィル
「5」2002年2月17日聖書のみことばが虐待の道具に利用されることがある「信仰」という名の虐待を受けた人たちのカウンセリングを行っていくなかで、いくつかの共通点があることがわかってきました。それは、聖書のみことばを利用した虐待であるということです。相談者は、以前は聖書の言葉をとても大切に思っていましたが、今では聖書を読むたびに気分が悪くなるということです。聖書以外にも、その症状は教会を離れた後の普通の生活の中にまで及んできています。あることばを聞くと、激しい混乱と罪責感を感じてしまうというのです。このことを具体的に理解していただくために、いくつかの例を紹介しましょう。
 12年間教会に通っていたその女性は、「世界」ということばを聞くことに強い恐怖を感じています。なぜかというと、彼女は長年にわたり、説教の中で「この場所(教会)以外は、サタンの世界である」と聞かされていたからです。教会を離れた後も、無意識の中で「世界」ということばは「サタン」ということばにつながり、聖書の中、あるいは通常の生活において見聞きする「世界」ということばに過敏になってしまいました。聖書が読めなくなってしまったこと以外に、何とも言えない嫌な気分を味わい、激しい頭痛に悩まされるようになってしまったのです。そのことで良い対人関係を作ることもできなくなってしまったということです。
一人の男性の教会では、牧師の語る「信仰」とは「牧の言うことには無批判に従うこと」という意味でした。もう一人の男性の教会では、牧師の語る「献金」の内容が信徒個人の財産すべてにまで及んでいたということです。それは、「信徒の財産すべてを告白しなければならない」というものでした。そればかりか牧師が信徒の確定申告を調べ、信徒自身が献金の金額を決めるのではなく、牧師が信徒の献金の金額を決め、強要しました。 その後、二人はそれぞれ違う教会に通うようになりましたが、そこでも当然、「信仰」や「献金」ということばが出てきます。「信仰」や「献金」ということばの意味は全く違うものであっても、以前の教会の教えの誤りが整理がされていなかったために、激しい恐怖と不信感が募り� ��二人とも教会に通うことができなくなってしまいました。
 「信仰」という名の虐待というものが、実はまず初めに教会の礼拝で、メッセージを通して行われるということに注意を払わなければなりません。ある牧師は、自分の思いどおりに教会の信徒をコントロールするために主題説教を利用します。また、ある牧師は熱心さのあまり、無意識のうちに、主題説教を通して結果的に虐待を行っている場合があります。
主題説教をする時に気をつけなければいけない大切なことは、テーマが第一ではなく、聖書は何と教えているか、神様は聖書のみことばを通して何と言っておられるかに注意を払うということです。危険なのは、テーマのために聖書のみことばを自分の都合のよいように用いたり、自分が言いたいことを聖書で権威づけして語ってしまおうとすることです。

「6」 2002年2月24日


 
 牧師のことばを聖書のことばと思いこませるトリック 

 ある牧師は信徒たちに「私は神様から、みことばによって、テーマを与えられました。それは、『自分を捨てて自分の十字架を背負いなさい』というみことばです」と言い、次の日曜日の礼拝のメッセージの中で、二つのみことばを中心にして、このテーマについて語りました。それは、コリント人への手紙第一15章31節のパウロのことばで、「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です」と、マタイの福音書16章24節のイエス様のことば、「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てて、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。』」です。
  その牧師はいろいろな観点から、自分を捨てるということと、自分の十字架を負うということの意味を説明しました。その時は別に何も問題は起きませんでしたが、その後、徐々に牧師の考え方、行動にズレが生じ、信徒たちから過剰な奉仕を求めるようになってきました。それが、結果的に虐待につながっていきました。毎週日曜日に、聖書から、そのテーマに基づいてさまざまなみことばを使いました。そして教会の中に、そのテーマとマタイの福音書、コリント人への手紙第一のみことばを書いた大きな垂れ幕を、壁に掛けたのです。日がたつにつれ、信徒たちの頭の中から、「神様のために自分を捨てて、自分の十字架を背負いなさい」 ということばが離れなくなり、いつもどうしたらそのようになれるかを考えるようになっていったのです。
 そこから徐々に信徒たちは、これらのみことばの本来の意味から離れて強迫的にこのことを考えるようになり、それと同時に牧師も、いろいろな行動を信徒に求めるようになりました。「神様のために自分を捨てて、自分の十字架を背負いなさい」のテーマに基づいて、すべてのことをこのみことばに関連づけてしまうのです。
 牧師は、いつも主題説教の中で巧妙なテクニックを用いながら、信徒たちの考え方をコントロールしていきました。最初から露骨に牧師の意図する考えを話すのではなく、自分を捨てること、自分の十字架を背負うことについて、徐々に何回にも分けながら、自分の考えが、あたかも聖書の本当 の意味であると信徒たちに思わせるような説教にしていったのです。
 このケースの最大の問題は、 説教のパターンが決まっていて、必ず最後に牧師の言うことに対して無批判的に、そして求めていることに対しては忠実に従わなければならないということでした。なぜなら、信徒たちは、本来の正しい聖書の解釈ではなく、牧師のことばを聖書のことばと思い込み、そこにことばのトリックが含まれていることに気づく者はほとんどいませんでした。
 こうして牧師は、次第に信徒たちの生活を管理し始めました。仕事を辞めさせて、教会のためにだけに働くことを命じることもありました。もちろんその人たちに、給料も休みも与えられませんでした。


「7」 2002年3月3日
 
 牧師の高ぶりを助長する信徒たちの責任も大きい

 その牧師は、外で仕事をしている信徒の休日の行動までも管理しました。牧師の考えはどんどんエスカレートしていき、信徒たちの財産、そして給料までも、献金することを要求しました。中には抵抗した信徒たちもいましたが、それに対して、「彼らは傲慢になり、神様のために自分を捨てて十字架を背負おうことができなかった」と言い、彼らをさばき、教会から追い出してしまいました。
 問題があまりにも大きくなったために、同じ教団の数人の牧師たちが、この牧師とも話し合いの場をもちましたが、彼は全く話に耳を傾けませんでした。逆に牧師たちが帰ってから、彼は教会の役員を集めて、「サタンが私たちの教会を破壊するために彼らを送ってよこしたのだ」と� �りました。その後、この牧師は自分の教団から出て単立の教会を始めました……。このような問題は、全世界に起こっています。
 「信仰」という名の虐待において、「私」の意味が大きく作用していることがわかります。虐待をする牧師たちは「私」を中心に考えているので、最後にはだれのことばにも耳を傾けようとしません。もちろん、この牧師たちが急にこのようになったわけではありません。徐々に変わっていったのです。最初のころは、彼らは説教の中で、聖書のみことばの意味と自分の解釈の仕方を区別して信徒に伝えていましたが、次第に、自分の考え方、自分の聖書の解釈以外は正しくないと思うようになってしまいました。
 極端なものですが、一つ例を挙げましょう。アメリカのジム・ジョーンズという人� �、人民寺院というカルト集団のリーダーでした。彼はカルト集団を始める以前は牧師でした。最初はとても良い活動をしていたので、彼の牧会していた教会は少しずつ大きくなっていきました。ある日、教会の中で事件起こりました。ジョーンズが聖書を投げ、そして踏みつけながら「『私』はある。『私』は神である」と信徒たちに向かって言っていたのです。彼の考え方、行動が変わって行きました。1978年11月、南米のガイアナ共和国で、彼と人民寺院の子どもを含めたの912人のメンバーが集団自殺をするという結果を生んでしまったのです。
  このような問題では、多くの場合、牧師自身だけでなく、信徒たちにも大きな責任があると言えます。それは、「自分たちの牧師は特別な方である」と思い込んでしまうことです。あるいは、神のように見てしまうことです。時には「先生はとてもすばらしい。先生のような方はほかにいません」などとことばにして伝えてしまうこともあります。大勢の信徒がそのように言うと、そうした雰囲気で牧師自身も、「私はすばらしい牧師に違いない」とおごり高ぶった考えをもってしまう可能性があります。牧師自身が、自己中心的に自分の考えが正しいと思い込んでしまうばかりではないのです。
 私を含め、どんな人間でも、同じ過ちを犯す可能性があります。教会内に限らず、どんな社会においても、リーダーに立つ人はこのよう� �誘惑の中に身を置いています。



「8」 2002年3月10日
 
 意見違いを単純に虐待と結びつけることはできない

 牧師の考え方や行動に高ぶりによる変化が現れた場合、その教会の信徒もしくは役員、さらにその教会を管轄する教団はそのことを速やかに指摘し、やめさせなければなりません。神学校でも、そうした問題の危険性に対して教育をする必要があると思わずにはいられません。
 信仰とは個人の内面にかかわるものですから、とても個別的な姿をもつものです。しかし一方ではみことばを通して、教会生活を通して「あるべき信仰のあり方」を考える必要もあります。この二つの姿の中で私たちはバランスをとり、苦しみも受け取り、喜びも与えられ、救いの感謝をもって主の道を生きていきたいと願うのだと私は思っています。個々人でそれぞれのバランスの取り方が違って� �て当然です。
 私たちが一致している点は、神様を通して罪人であることを教えられ、イエス様を通して救われた者であるということに尽きると思います。その救いの後に、「救われた者は、みな同じ考え方にならなければいけない」というところに落とし穴があります。例えば、牧師の願いと信徒の願いは一致しない場合もあるはずです。牧師の願いが至上命令なのではありません。みことばにはクリスチャンとしての様々な教えが書かれています。そのみことばをどのように読み、どのように従うのかということに対して大事な理解の助けてとなる牧師の役割は大切なものですが、教会を作り上げていくためには、信徒一人ひとりのみことばに対する理解の深まりが必要だと思います。
 クリスチャンがそれぞれいろいろな意� �をもっているように、牧師についての考え方も人それぞれです。そのことから、教会の中で信徒と牧師の間に意見の違いが起こることがあります。信徒が牧師に対して不満をもつこともありえます。牧師と意見が違っていたために自分から教会を離れたケースがあります。信徒があまりにも完璧主義者で、また被害者意識をもっていたために教会に来なくなったケースもあります。
 ある女性は、牧師がいつも自分のことを気にかけていてくれないということで大きな不満を持っていました。彼女は教会に来たら、必ず牧師に祈ってもらわなければ気がすみません。しかし牧師は他の大切な仕事もあって、必ずしも彼女のために時間を取れないこともありました。そのうちに彼女は、「牧師は私を嫌っている」「牧師は私を裏切ってい� ��」と考えるようになりました。そして教会へ行くのをやめたのです。
 多くの教会に、似たようなケースがあると聞いています。確かに信徒と牧師の間にトラブルが持ち上がることがあるでしょうが、それらすべてが「信仰」という名の虐待ではありません。牧師が信徒を自分の欲望のために管理支配しようとしないかぎり、それは虐待とは言えないのです。信徒が牧師と、あるいはその教会と自分の考えとが違うということで教会を離れるのはその信徒の一つの選択です。ですから、教会の中で起こるトラブルを単純に「信仰」による虐待に結びつけないように注意をする必要があると思います。


(9) 最終回 2002年3月17日

 

 主イエスは虐待をする宗教者について何と言ったか

 「信仰」という名の虐待の問題に対して、私たちクリスチャンはどういう態度をとらなければならないでしょうか。まずキリスト教の中で、この問題が存在すると認めなければなりません。虐待などないと言うならば、何も解決できないと思います。もちろんクリスチャンとしてこの問題を認めるのは簡単なことではありません。キリスト教にとってそれは一つの汚点だからです。しかし、キリスト教とは愛と救いの宗教だと思い教会に来た人たちが、このような虐待を受けた時に、どれほど絶望的なことでしょう。それに対して、クリスチャンが事実を認められないならば、イエス・キリストのメッセージは「偽善な教え」となるのではないでしょうか。
 認めるということは 、キリスト教の教えが正しいと思っていても、クリスチャンも人間であり、誤りを起こす可能性があることを頭に入れておくということです。
  私は、13世紀のように人を裁くための宗教裁判〈異端審問〉を望んでいるわけではありません。しかしクリスチャンとして、謙虚に受け止める必要があると思います。キリスト教界は自分のこととしてこの問題を捕らえ、見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
 新約聖書において主イエスは、「信仰」の名によって虐待をする人たちを強く批判しました。そのことについてアメリカの牧師デビッド・ジョンソンは、次のように述べています。
 ―主イエスは罪人を批判したことがありません。その当時の宗教者と彼らの律法主義「宗教システム」に対して激しい論争をしました。主イエスはマタイの福音書23章4節で、「信仰」という名の虐待をする宗教者を批判しています。「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分� ��はそれに指一本さわろうとはしません」
  多くの人たちはその当時の律法主義という「宗教システム」とその宗教者から、傷や差別などを受けたので、自分たちの心が癒されるために主イエスのところに来ました。マタイ9章36節に、主イエスのところに来ていた人たちの精神的で霊的な(魂の底の)胎動がはっきり表れています。「弱り果て、打ちひしがれている」。ここで使われているギリシャ語のことばは、外からくるストレスによって表れてくる感情を意味しています。とくに律法主義(宗教システム)からくるプレッシャーです。
 この律法主義を変えるために、神はご自身のひとり子主イエスを遣わされました。主イエスは傷ついた人、疎外された人、差別された人などのために来ました。マタイ11章28〜30節に主イエスの使命がはっきり書かれています。「疲れたも� �、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
 主イエス、そしてキリスト教の本当の使命は、人々の心を解放することです。人々を奴隷にすることではありません。


 *この連載は、いのちのことば社から間もなく発行される、マインド・コントロール研究所編『「信仰」という名の虐待』(850円税別)の一部を編集したものです。同書にはパスカル・ズィーヴィ氏のさらに加筆した原稿のほか、福澤満雄氏、志村真氏らによる論考など数編が収録されます。 


相談したい人は、電子メールを送ってください。
お楽しみに!!



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